昭和49年12月24日 朝のご理解
ご理解第53節 信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。
信心を例えば十年も続けておりますと確かに間違いなくなんとはなしに、すべてのことが整うてくるようですね。なんとはなしにおかげを受ける。十年振り返ってみてあれもおかげであったこれもおかげであったなと言うことが段々分かってくる。本当に信心の世界というものは本当に不思議なものだと。そういう、例えば十年なら十年の間に様々な事が起きてきた。様々なことがあった。やはり雨もあれば嵐もある。お天気の日ばっかりは決してなかった。
ところがその雨やら風やらのことがかえって、おかげになっておると。それが、あの、おかげの基になっておる。いうならば、その風や雨がいうならば苦労が生きてきておる。信心は、そういう、全ての例えばかくというものが、生きてくる。または生かしていく生き方をさせて頂くのが信心だという事です。
過去においてああいう忌まわしいことがあった。過去においてああいう辛い思いをしたことがあった。過去においてああいう大損したことがあった。その、大損をしたことやら忌まわしい思いをしたことやらが、様々なまあいわば難儀と思うておったことがあのことのおかげでと、言える様に必ずなっておる。信心させて頂いておるとです必ずそういうことになってきておるです。これはもう本当に信心すりゃ目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多いと仰せられるようにです、私共がきずかん間に、だから信心を続けてみなければ分からない。
それが二十年経ち三十年経ち、もういよいよもって信心のおかげというものがです、なるほど、(?)はっきりと本当におかげを頂いたおかげを頂いた、そういうこともあります。だからそういうことは誰でもいうならば、おかげと言うことに気が付きます。ね。特別のお繰り合わせを頂いたということも分かりますけれども、一つ目に見えないところ、それはだから何時の間にか何時とはなしに、身に付いてくるものであり、何時とはなしに、おかげを受けておるという事実が、身の上ににも家庭の上にもまた、自分の周辺にもそれが、現われてくるのです。私はそういう、いかにも漠然としておるようであるけれども、信心はだから続けてみなければ分からないです。
なんとはなしにおかげを受けておるの、してみると、あの時のあれもおかげじゃったの、あんときもやはり、神様のおとりかえであったのと言うことがわかる。私はそういう分かる世界をです、まあ、いうならば、極楽の世界だと思うのです。
明日ですか、マルショウの感謝の夕べと銘打っての子供達のまあ、集いを致します。今度は素晴らしいアイデアで、大祭の時から切符を沢山売っておるそうです。その切符というのがちょうどあの、汽車の切符と同じように作ってある。それはどういう事かというと、極楽生きから合楽生きという切符を作っておる。それを皆さんに求めてもらった。そして、いよいよ極楽ムードの会合にしたいというわけであります。
私は本当に思うのですけれどもね、あの合楽に御神縁を頂いたと言う事は極楽行きの切符を買ったも同然だと思うです。ね、これは絶対そうです。けれどもそれが、なら極楽行きのやはり車なり船なりにです、乗らなければ仕方がない。だからあの、極楽行きの切符を買っても(?)極楽行きをしておるのと同然ではないでしょうかね。その船の中であり、また汽車の中が、あたしは極楽ムードだと思うのです。ね。いうならば信心の世界です。合楽信心の信奉者の世界なんです。私は今教団で、何十年でしょうかね、「御取次成就生活運動」という運動が展開されております。ね。それはどう言う事かというと、ね、今申しますように信心させて頂いておりものが、本当の信心生活が出来る事の運動であります。
だから信心生活を元にしなかったらね、いわば、御取次成就と言う事にならないのです。ね。金光様のご信心をさせて頂く、いわゆる信心生活をさせて頂くようになならせ頂いたら、そこには極楽行きの切符を買って求めておるようなものですから、今申しますように、あれもおかげであったこれもおかげであったという、まあいわば、十年も経ったら分からせてもらわないけん。今、金光様のご信心を頂いてよかった。とくに合楽に御神縁を頂いて良かったということなんです。そして今まで、気が付かなかった過去の忌まわしいことも、苦しかった事も難儀と思うておったことも、それが、みんなあの事のおかげで、という事になってくる時に、いうならばあれもおかげであったという、あのこともやはりおかげであったと気付かせて貰う。
してみると今日只今ふんまえておる問題も、これは問題が問題にならない。苦労であってもそれは苦労ではない。それは神愛だと。神様のおはからいの中にあるのだと悟らせてもらう時に、そこに極楽があるのです。ね。御取次成就生活運動というのは、そういうおかげを受けると言う事です。そこで、その御取次成就信心生活運動の内容としてです、合楽示現活動という事になってくるのです。私共が本当に信心を頂いておる有り難さ、あれもおかげであったこれもおかげであったと、あれもおかげと言う事は過去の事もその事がその時はそう思いよらなかったけれ度もあのことのおかげで御神縁を頂いた。そして今日おかげを頂いてみると、あれもやはりおかげであったことが分かる。してみると、これもと言う事は現実ふんまえておる、難儀といえば難儀かもしれん。現在、例えば病気をしておるなら病気をしておると言う事も、今金に行き詰まっておるなら行き詰まっておるという事もです、ね、後になってみるとはっきりおかげと言う事が分かるけれどもです、もう、後になって分かるよりも、今日只今これもおかげこれも神愛と分からせて頂くところに極楽があるのです。
ね。だから私は思うのにね御取次信心生活運動というのが展開されて、教団全体のしかも何十年間のその運動が起こってお互いがおかげを頂いておるのにも関わらずですその私は極楽というあれもおかげであったこれもおかげであった御神縁を頂いておったおかげで過去の一切が生きてきたというおかげを頂き乍、おかげをおかげと思い切れていない。現在ふんまえておる難儀の様相というものをやはり難儀と思うておる。過去の体験から、今日只今の難儀も神愛と言う事を分からせて頂くという事なんだ。その運動です。合楽示現活動というのは。あんたはおかげを頂いておるじゃないか。例えば合楽の皆さんなんかの場合、第一家には薬箱がなくなっておるじゃないかと。毎年毎年お医者さんにあれだけの、薬代、お医者代を払いよったのは、もう全然払えんですむくらいのおかげを頂いておるじゃないか。本当に思うてみると、ね、薬代が一つもいらんごとなっておる。同時にです、ね、争いのない世界に住んでおるじゃないか。家庭はいうなら信心いわばムードというか、そりゃ人間生きてるもの同士が一つの世帯というものを持っておりますと、意見の相違もあったり、意見を叩き合わせるような事もあるけれども、そんなら合楽、親先生にお尋ねして、という事で解決しておるじゃないか。張り合わないでも住むほどしのおかげを受けておるじゃないか。
同時にです、なら、貧乏のない世界に住んでおるではないか。なるほど、いうなら、銀行に沢山のお金を積み上げるほど貯めておるというわけではないけれども、その日その日事かかんだけのお繰り合わせを頂いておるではないか。いついつはまとまったこれだけの金は要るといういえば、そんときゃそん時ちゃんとお繰り合わせを頂いておるじゃないか。十年経って初めて分かった例えていうならば。これは十年たたんでも三年でもいいですよ。ね。けれども、十年と信心が続いたら我ながらわが心を祀れと仰るような御教えもありますからです、わが心が祀れるほどしの、有り難いものを頂いておるけれども何とはなしにまだ、頂き足らん事思うておる。現在、ふんまえておる、まあ信心はないならそれを難儀と思うかもしれないけれども、信心の体験を積んで来て、十年積んできて、そこに、見る時にです、これは難儀のように見えておるけれどもこれは難儀ではないのだ、神愛だ、もっと力を下さろうとする神様の働きじゃと言う事が分かるのですから、そのことに対してお礼がいえれるムードというものが自分の心の中に家庭の中に出来なければならない。言われてみて初めておかげを受けておるなあ、同時にあれもおかげであった、これもおかげであったと分からせてもらうて今日只今もっておるこの問題も実を言うたら、おかげなんだと分かる時にです初めて極楽行きの切符を買って極楽行きの車に乗っておるようなものである。ね。
いうならば御取次成就信心生活運動に参加させて頂いて、そういう、信心生活が家庭に出来るようになり、自分も出来るようになったところからです、私だから、御取次信心生活運動に参加させて頂いておるもの自体がですあれもおかげであったこれもおかげであったともう翻然ときずかなければ御取次成就信心生活運動は成功しないと思うです。
その証拠に御取次ぎ信心生活運動が、始まってこのかた何十年になるけれども、金光教の信心者、信奉者が一つも増えていないという事実があるのです。そこで、合楽で只今合楽示現活動に参画させて頂くということは合楽のものがまず、私は極楽のおかげを頂く、信心生活のおかげで本当に、こういう貧乏のない争いのない、病気のない、そういう世界。同時に真善美の世界。嘘のない真の世界。悪のない善の世界。見苦しいという反対の美の世界に住むことすらまでも許されておる今日。ね。
このおかげをです、自分の周囲に周辺にも分かってもらわなければおられない。頂いてもらわなければやまんという心が、合楽示現活動なのです。さあ、一度合楽示現活動に参画という事が合楽に展開されて参りましたらです、ね、それこそ、その働きをもう一ついよいよ本当な、いわゆる光の輪です。をいよいよ広げていくことの為に神様が先頭に立って、お働き下さっておる事実をこの半年の間に皆さんが実証し、または体験し、またはそれを自分の周辺にみておられるのが今の合楽の、奇跡の続出でございます。
ね。目くらが開く。チンバが立ちあがる。どうにも出来ん問題が不思議な不思議な働きによって解決しておる。ね。それこそ、疑うてかかっても、縋るという気がありゃあ、奇跡を見せると仰るのですから、だから縋らんでおかげにならんです。ね。ただ、お願いしときますじゃいかんのです。縋らないかんのです。縋ることになれば、例えば朝参りくらいお日参りくらいはさせてもらう、それが縋る印を神様に見て頂くのですよ。
それは神様はまだ信じきらんというのが事実です。だから今まではです、信じなさい、信じなさい信じればおかげになるというのが、私の言い方だった。ね。それをなら、私を信じなくても神様を信じなくても苦しい。苦しいから悲しい時の神頼みでもです、頼むという気になって縋るという気、その悲しい時の神頼みでもよいのだと。奇跡を見せると神様は仰る。さあ、(?)というのはなるほど信心も分からない人達の上になら、奇跡が続いておるということなのです。ね。
そこで初めていうならば神様の実在もお取次ぎの働きと言う事も分からせて頂いて、その分かっていく人達がいよいよ、本当の信心、御取次信心生活運動が、出来てそういう運動にも参画させてもろうて、自分自身があれもおかげであったこれもおかげであったと分かる程しの信心になれた時にです、初めてあなたは極楽行きだということになるのです。いや極楽行きの切符を求めて極楽行きの船に乗ったという事になるのですよ。あれもおかげであったこれもおかげであったと分かるようになる。いよいよ本当の金光教の信者、合楽の信者ということになるのですよ。それまでは本当の合楽の信者じゃない。
ね。あれもおかげであった、これもおかげであった、と分かるようになる。
ね。そこでです、そういう有り難い、これがこの世の極楽であろうかと思われるようなおかげをです、真善美の世界に住み、貧病争いのない世界に住まわせて頂いておるこの、境地という、このおかげをです、人にも分からせてもらわにゃならない、世界中の人達にも広めていかなければならないというのが、合楽示現活動。
それにお互いが参画させてもらう。それに神様がですいわゆる神仏がね、不思議な働きを示し現しながらその光の輪を広げていって下さる。私共もその光の輪をいよいよ大きくしていくその中に住まわせて頂くことが出来るのです。
皆さん、合楽行きの切符いうならば極楽行きから合楽行きというその合楽行きと言う事は、どう言う事かというと、そういうあれもおかげであったこれもおかげであったと分かる世界に住まわせて頂いてそういうおかげをです、人にも伝えていこうという働きが合楽。私と貴女と一緒におかげを頂いていこうと、ね、それをもっというと神様の、願いであるところの難儀な氏子の救済。難儀な氏子が取り次ぎ助けていかれることの為の働きを私共がさせて頂くと言う事がです、とりもなおさず神の願いが成就するということになる。私の願いが成就し、神の願いが成就し、神様と氏子が喜び合うていけれる世界。そういう世界を合楽世界というのである。
多くのお道の信心者、信奉者がです、ね、御取次信心生活運動にです、参画して、事実はおかげを受けておるけれども、おかげをおかげと感じきっていない。だから金光教が一つも増えないというのはそれなんだ。そこでなら、示現活動というこの頂いておるおかげを人にも伝えねば止まんというのである。
今、カセットが二十一台、今合楽で毎日、カセットにまあ入れてあるわけです。入れておるそうです。先日聞きました。毎日二十一台。それを一人一人がです、まあ五人の人に聞いてもらうということになるとです、ね、いうならば百五名の人に聞いてもらうことになる。ね。有り難いいうならばおかげの受けられる話をそういう事になってくるのです。そこでなら、カセットがなからなきゃあ示現活動が出来んかというたらそうではない。自分達自身がここで頂いたこのおかげをです、一つの拡声器にもなって自分の周囲にそれを広めていこう、進めていこう。せめて、一日に一人くらいは、お話せにゃおられないくらいなです、それこそ熊谷さんではないですけれども、示現活動、人に信心のお話しなかった日は何とはなしに神様の前に出るのが怖い気がする。大黒様が妙な顔をしてござる風に感じるというておられます。どうでしょうかね。皆さん。示現活動が本当に一人、一日でも一人誰か話すあの、示現活動が始まったのが、えらいみんなが勢いずいておるばってんこの頃はそういうものが何か消えていっておるような感じがする。それはあなた方がおかげを受けておる合楽に御神縁を頂いておる有り難さというものがないからです。
これは本当に私は大変困った問題だと思うのです。おかげを頂いておることが有り難いという実感を頂いておることは、もうそれを話さずにはおられんです。ね。相手が聞こうが聞くまいが反発を受けるかも分からないけれどもとにかく、話をしていくと言う事がです、神様の御心に添うて行くことであるから、必ずそういういうなら神様の働きに便乗させてもろうてです、示現活動に参画させてもらうと。だからあらゆるところからですその縁を活かしていかなければいけない。
昨日正樹さんが息子が交通事故を起こしておった。それで、病院代か何かを向こうのお父さんになる人が取りにきなさった。そしてそのお金を渡してから、色々話しておるうちです、奥さんがなんとかガンでもう助からんという病気にかかっておられるという話を聞いた。ね。そこでそんなら一遍、私がお参りをしておるところのお神様に一遍お参りしなさいというて此処に連れてきた。そして、ここで、例えば少しのいうならば希望が湧いてきたのです。はあ、ひょっとすると家の家内も家は助からんと言うておるけれども助かるかもしれんという希望が湧いてきた。その事を帰って息子に話した。
夕べの(?)その息子がお願いに参ってきております。ね。だからもう、示現活動をさせて頂こうと思うとですね、きっかけは必ずあるです。それで、例えばその、昨日のその緒方さんという方です、広川村から参ってきておる。そして、してみると息子が久富組の車に引っかけられてから、怪我をしたということが今度は本当におかげという、あんたがたの奥さんの命が助かるというおかげではなくて、緒方家の本当の幸せがそこから、開けれるようになってくるとです、その事故に遭うたと言う事がまた有り難いというて話た事でした。
何かに神様が引っかけて下さるのですから、私共その気になっておらないとです、示現活動を出来れる、与える場を与えられても示現活動が出来ないです。ね。私は夕べは月次祭、今度年末の一番最後の御月次祭にいつもよりもご参拝が少なかった。ね。例えば月次祭といったような時には本当にです、もうそれこそ、誰にでもかれにでもね、お導きをするチャンスですよ。今日は御月次祭、有り難いお祭りがあります、有り難いお話を頂くのですから、お導きをするチャンスです。家族の者にでも親戚の者にでも一通り電話をかけるくらいな気持ちがなからんければだめですよ、皆さん。おかげを頂きたいなら。ね。いうならば神様が一番喜んで下さる合楽示現活動、喜んで下さることに参画させてもらうからこそ、神様も生き生きとしておかげを下さるです。子供でも年寄りでもよい、さあ家の車に一緒に乗っておりなさいというようにです、ただ自分が時間になって参るだけに参りさえすればよいというだけではいけんです。
孫も連れてくる嫁ごも連れてくる、親戚の誰かに伝えて今日は御月次祭ばいと伝える、それが示現活動です。それがこの頃少しなにか緩やかになったような感じ。それが薄くなったような気がする。ね。為にはまずです、私共がもっともっとすあれもおかげであったこれもおかげであったというおかげを実感させてもらえる信心を頂かなければいけません。ね。御取次成就信心生活運動。いわゆる教団で何十年間言い続けて来た。けれども、一つも発展の様子は見えなかったけれども、ね、合楽示現活動が参画するという運動が展開されてきたらこれは合楽教会だけのこと、または合楽教会に関係ある教会だけのことですけれどもです、それこそものみはるような発展を見せておるという事実をです、ね、いわゆる全教の合楽信心生活、御取次成就信心生活運動をなさっておられる人たちにです、一遍そこにおかげを受けておる事実を自覚させてそこから示現活動に移らせて頂くようないわば働きがです、全教に起こってこなければならないのですからね。
合楽教会自体の信奉者の一人一人がです、ね、その気になって、何か苦しいことがあるなら、困ったことがあるなら、示現活動に一つ打ち込んでいきなさいと。ね。人を助けて我助かれ。間違いないです。神様が先頭にたって不思議な働きを示し現すとおっしゃるのですから、苦しいことだけにただお願いしますお願いしますというだけではなくて、どうでもそれができてんならです、自分はその事にいっぺんお取次ぎを頂いて親先生にお預けしてそして自分は、合楽示現活動に一生懸命になるくらいな自分になってごらんなさい。そのことが一番神様のお喜びであるのですから、神様が先頭に立って不思議な働きを必ず見せて下さるです。ね。どれだけ合楽示現活動に合楽示現活動と繰り返しいうておりますけれどもその、いわば働きに私共が、参画させて頂いておる印を見せておるだろうか。成る程、これじゃあ、おかげを頂けんはずという事を分からせて頂いてですおかげを頂いて欲しいと思います。
それにはまずです、自分自身があれもおかげであったこれもおかげであったというその実感の中に、なからなければ中々生き生きとした示現活動も出来ません。
どうぞ